”境界線”という問題が生きている中で度々訪れる自分の課題だと思っている。
あるSNS投稿を見たときに、「戦争への最大の反抗は、自身の日常を淡々と続けることということがおかしくない?と。どうでもあっても続くのが日常というものだし、この戦争の時代に、自分のささやかな幸せにフォーカスして生きよと、世界は美しいものだと、穢れに侵される周囲に目を向けないなんてそれは権力者の思う壺で、それこそディストピアじゃない?という言葉を聴いた時、胸が疼いてしまった。権力者から見たら、私の写真や気づきも、悪事を曇らせる都合のいい側の弱者でしかないのか…と
数年前、怒りや不安や戸惑いで呼吸が乱れ、神経が崩れ、寝ても寝れも疲れているときがあった。どんなに社会のことを考えても、こんがらがって分からなくて、どうしようもなくなって、眠気に襲われ布団をキツく締めていた頃。自分なりにたどり着いた答えは、目の前に平和をつくるということだった。(それはのちに、今のアミニスム信仰への気づきへとも続く)社会を平和にすることなど私には到底できないから、自分の平和に、また自分の目の前の他者との心地よい関わりに力を注いでいたいと、思った。だから目の前の他者に優しくありたいとか、目の前の他者を理解していたいというのは、それが私にできる、この社会への平和だと思うからだ。でもそれは子どもじみた綺麗事なのかもしれない。ぶつかることができないのは、まぁ、人は良い面も苦手な面もあるし、本当はこういう気持ちがあるからそういう言葉を放ってしまったんだよね、と許してしまうからなんだけど、他者からしてみたら、逃げているのかもしれない。自分の中で傷になっていることは沢山あるのに、それを相手に伝えない、ぶつけられない、まぁきっとその人にもその人なりの、弱さがある、などと思ってしまう。超綺麗事なのかもしれない。そういう観点で自身の脆弱さが、一人を選んでしまうことにも繋がる。一人で過ごせることは強さだと思われるけど、どうだろう、私からすると生きる術だったという感じで、物理的な距離で境界を保つ。
私は、なんでだろうか、目の前にいる人を愛おしく思いがちだ。そして、案外周囲はそんなことないのか、とも、分かっている。セクシャリティとかとはまた別の、人というものを大切にするという感じで、その人というものの輪郭を知って行くことが、自分の喜びだったりする。でもそれは境界線の薄さでもあるのか、性的な好意と勘違いたり、利用されているのかなと苦しんでしまう時もある。自分らしく人を大切にすることと、他者と上手く生きていくこと、最近またその境界線というものに悩んでいる。
全ての原因は、自分の中の境界線融解欲求だとも、思う。境界線を溶かしたい、境界線を超えてみたい、そういった生理的な欲求がある。それは人間関係という観点で見て、それが良く作用するならば、他者を発見し、その人というものの輪郭が見えてくることに愛おしさを覚える(境界線の越境)ということだが、副作用でついてくる傷もある。また創作などの観点で見れば境界線というものの作用が自分の作品になっている。写真を撮ることは世界に溶けることだったりする。だから今も、「写真を撮っている」という言葉に少し違和感がある。私はカメラを媒介し、世界に溶け出ている。私も、景色になれたような気がしている。登山にも同じことが言える、山を一人、淡々と登りながらいつの間にか私もその山肌になれたような気がする。それが心地よく、自分を癒してくれるように思える。自分なりに出した境界線の作用と、副作用と、そんなものと今日も向き合っている。
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混沌した時代と書くと、きっといつの時代だってその時代になりに混沌としているとも思う。でも正解などないと明示された世界で、自身の正解を是としていくために問いを立て続けることは、疲れることでもある。膨大な数の、取り止めもない問いとその時々の答えや葛藤がメモフォルダに積み重なっている。誰かに見られたいわけでもないから、まぁそんなもんだと思ったいたし、時々出してみたり、やっぱりやめたりの繰り返し、恥ずかしくなるから。でもあえてここに今残してみているのは、自分の積み重ねてきたものだからだと思う。散乱した道中で、美しさを切り取ることや、気づきや葛藤を言葉にし自分なりに答えを探していくということは、長い間積み重ね、膨大な時間をかけてきたもので。自分の時間をそこに使ってきた、だから多分、なんか、虚しさもあって、他者と問いてみたいと、矢印が向かうものでもあるからだ。
本当は、他者へと問いかけてみたいんだと思う。納得しながら日々を歩んでみたい。でも私の日常は、私の問いや気づきを交わすことなどほとんどなくてただ、渦を巻くだけ。
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