エレバンは清潔で、治安も良い街だ。でもなぜか、私はこの国がハマらないかもしれない、そんな気持ちを持っていた。何故だったんだろう。八月の日差しのコントラストや、暖色のデザイン、捉える画に赤みが出てしまうことが嫌だった。でもそれだけじゃない。
たったのエレバンにいたところとて、アルメニアの何もわからない。移動してきた日に横を通り過ぎたあの青いセヴァンに早く行きたい、そう思い、早々にエレバンからセヴァン湖沿いの街・セヴァンへ訪れることにした。セヴァン行きのバスを入念に調べたのに、私は結局そのバスを見つけることができずに(旅で特大に膨張したザックを背負いながら2時間近く彷徨ったというのに)、「もう!どこかしらにはいけるだろう!」と、分からないバスに飛び乗ってしまった。にもかかわらず、座れた安心と疲労で、うつらうつらと眠ってしまった!?(一体いつの間にそんな度胸を手に入れたんだろう?)


トントンと、肩を叩かれ目を開けた時には、バスは片田舎の街を走っていた。乗客は誰も英語が通じず、でも旅行者らしき私を見て、きっとこの街に何かあるはずもないと声をかけてきてくれたようだった。翻訳アプリを使って、セヴァンに行きたいことを言うと、私より少し年上ぐらいだろうアルメニアの女性が、大丈夫大丈夫と言うような雰囲気、その優しい笑顔が旅先ではとても沁みる。一緒にバスを降りると彼女はタクシーを呼び、セヴァンまでの交渉をしてくれた。まるで映画を見ているかのように何もかもゆっくりで、ちょっとカオスでおかしく、スマートに端末一台でこなせてしまう現代において、時間をかけてでもそんなふうにその土地の人が寄り添ってくれたこと、あの、観光客の全く存在しない、すぐ奥に小高い丘がいくつも並び社会主義の名残りを思わせるすえた街で、夏の夕方の光に照らされた気怠い旅の記憶を今、愛おしく思う。彼女にお礼を言い、タクシーに乗った。セヴァンまでのタクシーは、手動で回すタイプの窓で、おもちゃのようにガタンガタンと揺れる車内のなかぼんやりと、直線に続く道を見つめていた。


フラダズン Hrazdan 町及び自治区のモニュメント。アルメニア正教介入以前、ゾロアスター教徒が中心だったアルメニアではゾロアスター教に由来する地名が多く存在するそう。

セヴァンの街は、先ほど迷い込んだ街以上にどこか疲れた街だった。空虚な寂しさがあった。公団住宅のような装飾のない四角い建物は、各個人ごとにリノベーションができるようで、ところどころの窓だけ後からなされたようなモールディングや、新しく塗り直されたようなその不釣り合いさが景色に雑音を与える。と、書くと、酷。


ゲストハウスの地図には日本人が訪れたピンがいくつか。世界中のピンの偏り、旅を選択できることに感謝する。
でも、この街にも素晴らしいところがある。まずは、とにかく立派な果物やお野菜が本当に安かった。フィリピンでも田舎町に行くと本当に食材が安くて、驚いたけれど、ここアルメニアの田舎町でも、大きな白桃を1キロ買っても100円しない…信じられない。流通未満の商売、小さくて美しいなと何度も思った。それに、治安がいいんだろう、夏の遅い夕暮れ後、辺りが暗くなっても、子どもたちだけで遊んでいる姿を何組も見かけた。


セヴァンについた日はへとへとで、近所のスーパーに少し顔を出し、まだやっていた八百屋さんでトマトを買って、エレバンのマーケットで買って使いきれずに持ってきた食材たちと合わせ夕食にし、早めに眠りについた。と、書くと単調で平穏な一晩だけれど、宿泊していたドミはハズレくじで、部屋に体臭が充満し、不潔と不安で、心身が硬直し全く休まらずに翌朝からへとへとだった。思い返すと笑えてくるのだけれど、こんなこと若いうちじゃないと本当にできないだろうな。笑 あちこち凝った身体を抱えながらの朝食を持ってテラスに出ると、朝の空気は冷たく爽やかで、標高が1000m以上あるセヴァンの街は高原のような空気だった。乾燥してしまったラバシュにスーパーで買ったクリームチーズ、大きな胡瓜・オリーブにディルを添えた適当な朝食を済ましコーヒーを飲む。朝の空気のおかげで活力が湧いてくる、そして歩いて世界遺産セヴァナバンク修道院へ向かうことにした。


小さなセヴァンの街を抜けるとすぐ、道すがら、高山植物のような花々が溢れかえる。綿毛が顔を覗かせているその草花に秋の気配が漂う。随分長い間旅をしてきた、と思う。夏の始まりのアドリア海峡から、アナトリア、コーカサスと歩いてきた記憶、胸がいっぱいになる。しばらく花蜂たちが戯れる秋の始まりの野の道を、ゆっくりと歩いた。


すると前方から羊の大群がこちらへ向かってくる。大興奮。そんな私をよそに、羊たちはお行儀よく整列し、前へ前へと進む。ソ連介入以前、長い年月を酪農国として生計を立てていたアルメニア本来の、ゆったりとした素朴さを垣間見る。


もうしばらく歩くと、トレイルロードの看板を見かける。どうやらセヴァナバンク修道院をゴール地として繋げるそうなので歩いてみることにした。金色に光る草が風に揺れる一本道を登ってゆくと、後方にはどこまでもつづくセヴァン湖の青。誰一人いない。誰一人いないことの喜びを話すと度々「怖くないの?」と、尋ねられる。広大な自然のなかでたった自分だけという時間、いつの間にか私の輪郭など、その景色のなかへ溶けてゆくような気がする。怖くない、ただ、心地良さだけがある。



そうしてセヴァン湖の周囲で一番高度の高い山頂(丘の上)まで辿り着き、十字架に旅のお礼をする。街と、その先の湖を眺めながら、持っていたインスタントのコーヒーとリンゴでおやつにする。どこにも遮られることがない風が湖面を走り、丘を駆け上がってくるので私は飛んでいってしまいそうだった。でもあの青と、緑だけの世界。空気は澄み渡り、身体は軽かった。山道を登り、山頂に食事をしにきている牛たちがなんとなく気になるような目で、(でもわざわざ動いてこちらに歩み寄るほどの関心もなく)私をチラチラと見つめる。後から知ったことだけれど、牛飼いは山には登っておらず、牛たちだけで道の悪い山道を登り、山頂の柔らかな草を喰み、迎えにきた人間の呼び声と指笛の合図が丘の麓から谷に響く頃、賢い牛たちは下山し帰路につくという日常を垣間見て、驚いた。日本にもあんな酪農があるのだろうか。


アルメニアは鉱物資源の豊富な国、実際に足で歩き、高いところから見渡すとわかるのだけれど、鉱物の岩肌に覆われた大地を持っている国だ。そんなふうに辺りを観察し、様々なことを考えているとうっかり足を踏み外してしまうほど未開拓感の否めないトレイルロードで、広がりのある草原の斜面に、自ら道を作り、目の前に浮かぶ白く大きな雲に向かって進んだ。





そうして遠く道の先、青い湖の上に小さく建つセヴァナバンク修道院を確認した時、胸がいっぱいになった。すでに黄昏の光が、草花に注ぐ頃だった。収めていたいと進まねば、その瞬間の連続で、この世界には収めきれなかった光の方がずっとずっと、多い。


もう少しだ、登ってきた山道をどんどんと下がる。道の途中は家すらもないただの草原だったので、セヴァナバンク修道院の周囲に着いてやっと飲食店を見かけるようになった。観光地向けのレストランだけれど、お昼も食べずにいつの間にか7時間近く歩いて空腹で仕方なかったので吸い寄せられるように店内へ。教会に訪れる前にアルコールなんてどうなんだろうと一瞬過ぎりつつも、炎天下で疲労困憊の身体には抗えず、デリジャン(セヴァンを北西に少し行った街)のビールで焼きたてのケバブを流し込む。幸せすぎる…….アルメニアのケバブは爽やかなソースとパクチーが効いてていて、シンプルだけどエキゾチックで美味しい。そうしてお腹も満たされ準備万端で、丘の上のセヴァナバンク修道院へ。


修道院は小さいながら、圧倒的存在感。その背後、湖畔周囲の山脈には雲がかかり不思議さが増す。青紫色のレンズを通したような不思議な色合いが包囲する。シンプルながらも経年したどす黒いトゥファ。土地の神秘性と存在の禍々しさ。セヴァナバンク修道院あった半島は従来、孤島だったそうでエチミアジン大聖堂の修道士が罪を犯した際の、島流しされる修道院だった。それがスターリン時代の人工排水によりセヴァン湖の水位が20mも下がり(琵琶湖の2倍の湖の水位を20mも下げてしまうなど神の領域に思う。人間は恐ろしい。)孤島だった修道院がこうして半島として徒歩で歩いて行ける修道院へと変化したことで現在、アルメニアを代表する観光地となったそう。


アルメニアの従来の祈り、それはエレバンの教会群の明瞭さとは全く異なるように見えた。祈りというよりも呪いのような怖さがある。後から島流しの背景を知り、長い年月、無数の膨大な祈りで重たく固まった塊だと感じた怖さもあながち間違っていなかったのでは、と思う。刹那的に見たらその神々しさ、美しさに感嘆しても、標高1000mを超えるこの地で、厳冬期、強い風に吹かれようと雪が降ろうとその小さな島の、重たい石の修道院から逃れることもできずに、自らの罪を負った僧侶たちの虚しい生活。閉じ込められたこのどこまでも青い湖に美しさを思う瞬間があっただろうか、そう願った。


そうして、セヴァナバンク修道院からセヴァンの街まで、再び歩いて帰った。この頃にはもはや徒歩90分の距離などはちょっとした距離になりつつあった。ちらほらと道の脇に点在する民家の軒先、薄暗くなってきた空の下で牛たちの乳搾りをするアルメニアの人々の、素朴で、真面目な生活の姿を垣間見る。そういった旅の道すがら、取るに足らない暮らしの一瞬みたいなものが何故か一番、私の脳裏に焼きついていたりする。