Iloilo2 教会へ

この街に魅了された理由の一つに教会がある。スペイン時代とアメリカ時代を過ごしてきたイロイロの街には立派なカトリック教会がたくさんあった。世界を見渡し、ここで過ごしていなければ決して訪れることはないだろう教会群。それでも、その装飾たるや…目を見張るものがあった。アミニスムを自分の信じるものしているけれど、どうしても宗教芸術に惹かれてしまう。

勉強に疲れたら、ちょっと買い物へ行く途中、教会へ訪れたりした。夏の午後の光が差し込むの教会の陰影、美しかった。自然に勝るものはないけれど、同じように文化にも惹かれていることを認めざる得なかった。同一線上で引っ張り合うみたいに、どちらもなくてはならないもので、そのどちらかという二元を比較し、小さな枠で問いかけ、出ない答えへと追い込んでいたのは自分自身だったと気づいた。

熱帯の、甘く焦げたような色の染まる夕方の教会、開け放たれた窓からは少し冷たい風が入ってくる。

木製の硬い椅子に座って、ゆうらゆうらと、揺れる陰影の美しさにしばらく身を任せていた。

それでも近年、フィリピンではカトリックからプロテスタントへの改宗が盛んらしい。立派な教会と聖像を奉る荘厳なカトリック教会、この物質の塊を維持するには莫大なエネルギーを必要とすることは見て当然だ。街を見渡せば、今生きている人々のために使うべきだろう部分をたくさん取り残して、その教会を維持するのには、どこか疑問を憶えるのも当然だと思う。反対に、プロテスタントは信仰主教のような感じで小規模。ロゴマークのようなシンボルを持つだけで、偶像崇拝はしないそう。ビルの1部屋などに同じ思考を持つ人々が集い、お祈りしたり、歌ったり、日曜日を過ごすらしい。

小さく在ること、自分の目に見える範囲で、手が届く範囲、ちゃんと大切にできるくらいで。そういう動きの中にいる。私もちゃんとそう在れたら…

2000年も続いてきた祈りへの疑問視、そして実際にその動きが現実化していること、どうしても日本にいると見えないけれど、信仰という核すら変化している大波の渦のなかに自分も今、生きていることを知る。