フィリピンでの滞在を終えて日本へ帰ってきたときに感じた体感といえば、今じゃない。
その違和感や時間がもったいないと少し焦っていた。数週間いた日本は、春を終え、夏に向かう途中にあるほんの隙間の爽やかな風の吹く季節。あの、穏やかな時間もまた、宝物のようだというのに…。フィリピンへ向かう前には見なかった庭の緑や、涼しげな紫陽花の青、数ヶ月の変化や季節。家の小さな庭の小さなテラス席で夕食にしたり、お土産を渡したり、刺身や寿司を食べ幸せだなと実感する反面、生きることになんのエネルギーも必要のないような、そんな甘やかなその風土はかえって私を無気力へと誘っていくように感じた。
従来、今年の六月は民藝市と夏至祭のタイミングでバルトの国々に滞在予定だった。が、フィリピンでの滞在が国という括りを思いきり取り去ってくれた。人という個人、地域という性質。初めての熱帯、単一の国であろうとそこにある多面性には驚かされ、その経験が興味深く、思った以上に滞在してしまった。
白紙のような足元を見て、さてどこに行こうかと、そう尋ねるならば針葉樹が連なる森、湿度があり彩度の低い森、大きな谷、そこにある教会。長い間ずっと、風に吹かれたいと思っていた。何かを入れるよりもまず、身体が求めるところへ行こう。自分の気持ちを確認し、東のコーカサスへ。
イスタンブール入りし、陸路でジョージアへ。イスラムとの比較対象になるジョージア正教や、キリスト最古の地と言われるアルメニア、そして心優しいと聴くイランに入り、コーカサスの山谷を歩き、街に住まい、人々の生活や信仰の気配を垣間見れたらいいなと思う。
その反対にバルト三国。ヨーロッパで一番キリスト信仰の布教が遅かった国で、ラトビアに関してはラトビア神道がある。では従来は?根幹が、アミニスム。それが惹かれる最大の理由。国土の大半が森と湖の国、人々は長い間、自然のなかで自然と共に生き、その暮らしは今も確かに続いている。しかも、最近は若い人々がその自然信仰的なものを根幹としたパーマネントな生活をしているそう。
私はあの彩度の低い森を歩きたい、奥に湖のある冷たい湿度のある森。きのこも取りたい、バスケットに入れて!と、妄想だけは完璧。
行きたいところは無限に出てくるから。
どこまで撮れるのか、どこまで書けるのか。
怖くても、自分の温度が上がるほうへ。