考え事ばかりしている。
考え事ばかりしていて、でも目には見えないから、何も考えていなそうと言われることがよくある。私は透明で、ボトルみたい空洞で、色がついたらいいのにと思う、いやでも、見えないからいいのかもしれないけど。
最近、会う人に立て続けにもらった”表現者”という言葉に、客観的に見たらそうなのかと思い、どこか戸惑った。確かに展示までやっているんだから、それは表現以外の何物でもないんだけど、なんでこんなに自分にとってモヤモヤとした感覚があるんだろう。それで、自分にとっての”表すこと”について暫く、考えていた。それで気づいたのは、”一方通行”でありたくないんだと思う。表現したいというよりも、「あぁこのことを、伝えたい」「これを伝えるにはどういったテーマがいいだろうか」と、それが自分の外へと放つ原動力になっている。問題提唱、だから確かに”アート”つまり表現と位置付けされるんだろうけれどでも、それ以外の欲求から生まれる創作物は外に放つ原動力を持ってない、もっと私的なものだ。
仕事を辞めて、二月末で二年が経った。
その時は、写真やデザイン以外の何かを探すために、もっと様々なマテリアルに触れ、自分の核を定めたいと思っていた。ある程度一人の裁量がある仕事でないと続かなさそうだという仕事観も20代である程度見えてきて、何か具体的な”もの”が欲しいというのもあった。でも、そこから二年間、私はひたすらに撮り続けていた。今はもう、撮ることが生きることと言えてしまうくらいに、撮ることに生かされている。私にとって撮ることは、世界の発見であり、祈りだ。私は撮ることを通し、世界に感動し、それを伝えていたいと思う。「伝えたい」と、それは向かいに”他者”がいる。だから私は、写真や言葉を通し世界と向き合い、この社会と繋がっていたいと思う。(そういう意味では木彫りも、矢印の方向に他者がいる、後で書く)
と同時に、絵や、音は、自分の表現でありながらこれは矢印の方向が一方通行というか、自分の内で”円”を描く感じだ。じっと、自分の内に降りてゆくものだ。カーテンの裏に本やノートを持ち込み過ごしていた幼少期のように、絵や音は、自分だけの安心できる居場所なんだと思う。なんとなく、そこに行けば息できるような、ここだけはちゃんと自分の感情を出せるところ。好きな絵や惹かれる構図はたくさんあるのに、自分からそれが出てくるわけではなくて、なんとなく今この感覚を放つために、描く。終えたら、すっきりする。でもその絵が自分が好きとか、ましてや飾りたいとか、そういう感じとは全然、違う…結局、皆そこで悩んでいるんだろうなぁ、自身の望みが、人の需要になるかは、分からない。様々な表現を見る限り、人の需要に合ったという感覚を味わったら、自身の望みからは離れてゆくんだと思う。私は大体初期〜中盤の作品に惹かれることが多いし、流行りの前の、だからこの言葉もマイノリティなのかもしれない、流行りが個人の望みの場合も大いにあるし。承認欲求。でもそれは、自分にとっては苦しい。創作は私的なもので、これが大人になった今の自分にとっての”カーテン裏”ならば、このまま私的なものとして、何にもならずに描き連ねることを、まぁ許していいんだろうかって。いわゆる表現、創作物でも、その辺りの矢印の方向性が異なるということについて自分が理解し、少しすっきりしたということの、記録。

