最後の日の朝、朝食を食べているといつもやって来る白い犬がきた。瞼が垂れて目が半分ほどしか開いていないような表情のその子は、シロツメクサの上に寝転び、片足を私の足の甲に乗せすやすやと、穏やかな呼吸をしている。風が吹くと短い毛が靡いて、可愛い。
朝食を終え、村へ降りる前にウシュグリ村の中にある小さな民族博物館へ訪ねた。博物館といえども、小さな石小屋は開いていない、偶然屋外に出てきていたおじさんに声をかけると鍵を持っており、中を見せてもらえた。入った瞬間、暗い石小屋に乱雑に置かれたその生活道具たちに唖然とした。削られただけの木彫りの椅子、皿やゴブレットもあった。どこか静けさと、無骨さが両立した暮らし道具たちの美しさに心惹かれた。意図があるのか否か、どれもなんとなく歪で、有機的な印象を持つ。大きくて無骨なフォルムの反面に動物や神の彫りの繊細さが際立つ。
ジョージアという国自体がさまざまな文化の交差路で、調べたとてはっきりとした様式がみあたらないが、個別の自治区として成り立っていたスバネティ地方には、確かな様式が見え、人も動物も、神すらも、同じ土俵で息をしているように見えた。薄暗い石小屋で私は時間を忘れ、夢中になった。外に出ることで、想像の範疇を超えたものに出会えることがある。遥か遠くに存在する何かに、妙な懐かしみを憶えることがある。不思議だけれど、どこかに忘れて来た記憶を引き出せるのがまた、旅の効用。
スバネティ地方の地母神がそのままキリスト文化に受け継がれているため、ここにしか存在しない聖人が存在するそう。昇る朝日や大きな木を前にして「神」と変換することが、不思議だ。なぜ、太陽や木を、神と変換することなくそのままに祈れないのだろう。全ての人がその土地のものに感謝出来たら…
高揚を鎮めようと、街へと降りる時間になるまでシュハラ山を見上げる丘の上で、音楽を聴きながら寝転んでいた。が、馬の鳴き声があまりにも近く、驚き後ろを振り返ると私の真後ろに大きな犬と馬がいた。笑ってしまった。この村にいると自分が何なのか、分からなくなる。犬なのか馬なのか牛なのか…この村は様々な命が横並びで暮らしている、牛も馬も犬も人も。
かつての秘境は、広大な美しい自然に晒される村は、自然しかない村でもあり、その厳しさは私には見えない。けれど、ここに足を運ばなければ出会えない表現、暮らしの有りよう、自分の記憶に刻みつけておきたい。そうして、ウシュグリ村を降りた。
5日間かけて歩いた山道。帰りはゲストハウスのご主人の車に乗り、たったの80分で出発したメスティアについてしまった。(以前は四駆でないと通れないほどの山道だったが、現在は整備されて交通量も増え、街への移動時間も時間も短くなったそう)助手席でうとうとしていた私はそのことが信じられず”Mestia???”と聞くと、笑いながら「そうだよ」と返された。その後スーパーに行き、好きなものを買った。山の暮らしは美しい、けれど、街に降りてくると、身体がほっとしていることに気づいた。
ピンバック:The mestia to ushguli hike 6 – my lone journey