次の朝、日差しの強さと空気の冷たさが少しちぐはぐな朝。ぼんやりしながら、もっとここに居たいなと思った。本来は続けて3泊4日を歩くトレイルなのだけれど、その何もないことの贅沢にもう少し浸っていたいと思った。相談し、延泊させてもらう。
お気に入りの窓辺
どんなに深く息を吸い込んでも草や、土の匂いしかしない。
正午過ぎ、周囲を歩き、隣の村(といっても数軒の家が点在するだけの)の丘の上の方に見える教会まで行ってみることにした。教会へ行くには急な山道をよじ登るようで、高齢ではかなり厳しそうに感じる。数十人ほどしか暮らしていないような小さな村や、山の奥地にもひっそりと教会が存在し、幾重にも溶けた蝋が重なり、時間の累積が目に見えた。大切にされているんだろうな。よじ登るように上がってきた小高い教会で少し休憩をした。昨日歩いてきた谷間を見渡すパノラマのようになっていて、風が気持ちよかった。
教会を後にし、そのまま隣の村へ降りてみようと山道を歩いていると、白っぽいきらきらと光る石が目に入る。クリスタル?!のような大きな石が、周囲にごろごろと転がっている!地球の塊が噴き出したようなそのクリスタルに、午後の強い光が差し込み、無数の光を放つのを暫く眺めていた。地球って本当に、綺麗な星だなと、心震えた。その後、この辺りではやはり貴重な石なのか、ゲストハウスや民家の塀の上にはそのクリスタルのような石が並び飾られているのをよく見かけた。
午後の暑さは耐え難く、散策を切り上げ隣の村からゲストハウスに戻った。すると庭で何か作業していたお母さんが私の掌に小さな野苺を乗せてくれた。そういった、些細なことに嬉しくて泣きそうになるから私は精一杯の笑顔で応えると、お母さんは笑ってくれた。言葉は通じないけど、通じないからこそ伝えたいという気持ちの方がよっぽど、大切なのかもしれない。早めにシャワーを浴びさせてもらい、汗と砂と日焼け止めを流し、すっきりと生まれ変わったような心地で、テラスに座りながら作業をしつつ、家族の姿を眺めた。小さな畑(といっても草だらけに見える)には、少しずつ必要なものだけが植えられ、家族のためだけの生きた八百屋のよう。お母さんはその野原のような畑に分け入り、夕食のためのネギやハーブを収穫している。その畑の奥の小屋にある石窯でお父さんがその日に食べるハチャプリ(チーズ入りのパン)やパンを焼いているのか、庭には小麦の焼けた香ばしい匂いが漂ってくる。
そんな光景を目の前に、すっかりお腹が空いた頃、今日のゲストハウスに泊まっているもう一組のフレンチカップルと一緒にテラスで夕食をいただく事になった。全てお手製の夕食、手作りの白いチーズにネギやパクチーなどハーブをたっぷりと巻いた や、肉団子の入ったスープ・オーストリ、ロシア風のマヨネーズのサラダや手作りのハチャプリなど、家庭料理でしか味わえない優しい味に、これが本来のジョージア料理なんだと感動した。
二人はパリから来ていて、夏休みが7週間もあると言う。彼女は「フランス人はLazyだから」と言っていたけれど、休暇に山を歩き、美しい世界に心震わせる人生がLazyだとは決して思わないかなぁ… むしろそれでも仕事を回せるなんて、生きるのが上手なのだと感心してしまう。きっと休暇明けの人々は晴れ晴れした顔で、それぞれの夏の思い出を語り合ったりするのかなと、想像するだけで素敵な時間で、私もそんな風に楽しい方を素直に選んだり、作っていけるようになりたいなと思った。
羨ましいとか、どこも一緒だとか言いながら次第に、日が暮れていった。
ピンバック:The mestia to ushguli hike 1 – my lone journey