彫ってみたい、それは今更の話ではなく何度もあった欲求だった。でも数年前はフルタイムで仕事をしながら、土日に引きこもって創作する生活。全然時間が足りなくて、むしろ完成度の低さに苛つきが募るばかりだった。何かを外に出されなければ、どこかに逃げなければ、苦しくて死にそうだったのに、全然時間が足りなかった。
旅先のトルコやジョージアで、驚くような木彫に沢山出会った。宗教美術に骨抜きになった。「私は、これを、アミニスム的にやりたい」と、思った。だから帰国してすぐに木を彫り始めた。木を彫る事は、インスタントに欲求を満たせない。一日がかりで向き合い、親指サイズの小さな木のかけらから表情が生まれてくる。でも木の質感、私が消えても全て森にばら撒いてしまっても問題ないというような仕舞いの良さ、そういう点で、長い間葛藤してきた表現に対する一つの答えだった。
でも今、彫ることを止めている。
それは、そこがいわゆる生きるための経済活動という車輪の、円周の長さとあまりにも差があるからだ。ふと顔を顔を上げると浦島太郎になってしまったように時が過ぎてしまう。ある時このままでいいのかな?と思った。沢山犠牲にしている気がした。こういったやり方で続けたら、大切なものを沢山失ってしまう気がした。小さな円たちをクルクルと稼働させ、そつなく暮らせる、その上で大きくじっくりと時間をかけて向き合っていくべきものなんだと思う。
アミニスム的偶像を作りたい、そして、自然に祈れたらいいのに、、、、と、伝えたいというかまぁ、他者につぶやきたい。決して義務ではない、でも、そうであれたらいいのになぁと、ぼんやりと他者に向かっているもの。

