祈りは、日常の中でふと自身を俯瞰し垣間見る一瞬の間。目を閉じて、その一瞬の間に、視界からの情報は消え、鳥の鳴き声や木々のざわめき、自分の呼吸が聞こえるように。以前、私は祈りを忘れているなと、思った。感謝することを忘れている。まるで、自分だけで生きているかのような気持ちになる。感謝を忘れることはすなわち幸福感を損失だ。
数年前、社会に放り出された私は、歩き方が分からなかった。何を信じたらいいのか分からず、苦しかった。その時に出会ったアーシュラ・K・ル=グヴィンの6巻の児童書”ゲド戦記”が、この旅へと繋がる私のバイブルになっている。作中で、大賢人ゲドに魔法を教えた魔法使いオジオンは、魔法使いでありながら、ただ森を逍遥していた。魔法を使う者、すなわち本当の力を持つ者とは、当たり前に耳を澄まし世界を愛でる目を持つ者だった。
世界を愛でる目に気づくと、たった半径数mの世界も日に日にうつろってゆく世界があることを私は知らなかった。まだ寒い冬の朝に、ふっくらと大きな蕾から一斉に、鮮やかなライムグリーンの芽が顔を出しているのを目にしたならば、産声が聞こえるような。その感動は、何にも変えられない、大切なものだったのに。そういった世界を愛でる目は、この社会で生きるには少々遅すぎる。社会で生きようとすることと、大切なものを失わずにいようとすることは、まるで相反する運動のようで、ちゃんとしたい自分と大切なものを失いたくない自分が引きちぎれそうなこともあった。
世界を愛でる目は、言い換えるならばアミニスム(animism)に近い。アミニスム(animism)とは、ラテン語のアニマ(anima) + イズム(ism)から作られた言葉。アニマは「霊魂」を意味し、生物・無生物に限らず霊性が宿るという言葉、それのイズム、つまり特定の思想ということを示している。それだけではふわりとしたものに聞こえるかもしれない。では現代の生活にその思考を持ちながら生きるとすると「すべてのものに命が宿るように接する姿勢」だと思っている。
私は特定の宗派を信仰としていないけれど、しいていうならばアミニスムを信仰したいと思っている。地球に生きている限り、万物に神とし、感謝するという精神の行いだ。キリスト布教以前、世界は各地土地信仰、つまりアミニスム的信仰で生きていた。今起きている世界の混乱の多くは信じるものによる対立だ。全ての人が、その地に祈りを見出すことが出来たなら、私たちは平和になれるんじゃないかと思った。山頂から朝日を待つ青金の時間や、松の梢に大きな滴が光ること。ここに居れて嬉しいなと、美しいなと、手を合わせたれたら、良いのに….
日曜日の午後、ミサを終えた人々の穏やかな空気が漂う。私は2時間近く行われたミサの美しさに骨抜きになり、木陰で寄りかかり、ぼんやりと、人々の姿を眺めていた。
なぜ人は教会やモスクへ通い、祈るのか。
私は毎日のように教会やモスクに通い、祈る人々を眺めた。自然光だけが僅かに差し込む境内で、蝋燭の光が揺れるのを人々が、じっと祈る姿は美しかった。宗教美術の美しさに、圧巻した。長い長い時間の累積による存在感、その力に、恍惚としてしまった。讃美歌の歌声が響き身体を包み込む。司祭さんの手がぽんと、頭に置かれるのを目する。血肉の通った一人の人間という存在の大きさ、敵わない…
自分の答えが分からなくなった。誰かの信じるものを否定するつもりは全くない。私自身が惹かれた心も否定したくない。
私たちはなぜ、地球に祈れないんだろう。
それは私たちが人間だからかもしれないな…
地球の美しさと同時に、人間の凄まじさに圧倒された旅だった。人が紡いできた文化に惹かれる心も、ライムグリーンの芽吹きに震えた心も、自分のものだ…