春の本

旅することと同じくらい、本が好きだ。

でも私の本棚を見渡すと、海外文学やエッセイ(海外でのこと)、はるか昔どこか異国のファンタジーなどが多い。結局私はいつも、ここじゃないどこかに行きたくて、ここじゃないモチーフに触れていたくて、本を読んでいたのかなとも、思う。

というのもこの冬、長い間憧れていた雪降る地での生活の中で、本を読みたい気持ちが起こらなかった。何故だろうかと思っていたけれど多分、どこにも行きたくなかったのかもしれない。

春が始まった頃から数冊、須賀さんの作品を読んでいる。以前も読んでいたけれど、なぜかその時の私にはイタリアという存在が妙に明るく、そして豪奢に思え、もっと人里離れた大自然を求めいていたんだろう、読み込めなかった。なのに突然、須賀さんの言葉がしっくりと、鳩尾に落ちてくる。本も映画も絵も、全てタイミング次第、その時に読みたい時に読みたいものを読むことが、自分の道を照らしてくれるような気がする。

スペイン広場からスカリナータの頂上にそそりたつトリニタ・デイ・モンティ教会をながめると、様式の不揃いな二本の塔が、暗いほど青いあのローマの空を背にきらめいている。五月だったら、ぼたん色の火をいちめんに放ったような平戸ツツジの鉢が市の公園課の温室から運ばれてきて、階段のトラヴェルティーノ石の、ときにはすすけてもみえるオフ・ホワイトをめいっぱいにきわだたせているだろう。階段の下には、花屋の大きなビーチ・パラソルが影をつくっていて、いったいこんなところでだれが花など買うのかと、見るたびふしぎに思う。陽ざしが強い分だけパラソルの下の影は濃くて、見筒に活けられた花たちの色彩が、まるで舞台写真みたいに闇に浮かんでいる。グラディアトーレスと呼ばれ、かつてコロッセオで猛獣と闘わされた剣闘士たちに名をもらった、血の色を編んだ花づなかと思わせるグラディオラス。こぶしほどもある花冠があでやかな匂いをあたりに撒きちらすリヴィエラそだちのカーネーション。東京でもローマでもおなじ白いヴェールで小さな花束を大きく見せるために使われる、でもそんな詐欺めいた手口の常習犯にしてはずいぶん可憐なカスミソウ。ユリ。バラ。一番下の段には、春ならスミレ や黄色いプリムラの花束。秋のはじめだったら、だれかが近隣の山々で摘んできたにちがいない、これは谷間の小屋に住む神秘主義者みたいにひそやかでちょっとかたくなな野性のシクラメン。売れるか売れないか、それだけが気にかかって花たちにはあまり興味のなさそうな、ぽってりとふとった花屋の小母さんは、両足をどしんとひろげたかっこうで、 だれかロマンチックな青年が花を買いにやってくるのを、ものうい午後の日陰で待っている。

ああ、これだ。一九五四年の春、はじめてスペイン広場から白い階段を見上げたとき、 私は、かたい小石のようなものが、幼いころの記憶の壁にあたってコトンと小さな音をたてたような気がした。それは、家族のだれかが当時ではめずらしかったヨーロッパ旅行の道すがらローマからよこした、そのために子供たちが大切にしていた絵はがきのイメージに、現実のそれがぶつかって砕けた音だったかもしれない。

著:須賀敦子.「時のかけらたち」アラチェリの大階段. 青土社,1998

美しいな…

生きているだけ増えてゆく知識や様々な感情を野放しにせずに、でも大切に持ち続けていたいなと思う。

休日、穏やかな風が心地よく、外に開け放たれた席で、いつまでも過ごせるような季節になってきた。冷たいミントのソーダを頼むと鮮やかでこっくりとした綺麗な緑色、レモンの黄色が可愛い。風に吹かれ本を読んでいると私はまた、どこかへ行きたくなってきた。